前回、「くじ」に外れて大学3年のときに入りたいゼミに入れなかった話が出てきました。
今回は「相談」のことは小休止で、そのことで思い出したことを書きます。
私は他にも、もっと大きな「くじの外れ方」をしています。受験の時です。
私は中学受験を経験したのですが、第一志望の(というか、そこに入ることしか頭になかった)中学校が、例年は
「入試→合格者のみ『くじ』を引く→『くじ』に当たった人が入学」
というシステムだったのですが、なんと、私の年に急に、
「まず『くじ』を引く→当たった人だけ受験できる」
というシステムに変更され…。
結果、見事に「くじ」に外れ、受験することさえ叶わなかったのでした。
急に、たまたまその年に、そんなヘンテコなシステムに付き合わされることになったため、ショックである以上に、かなり腹立たしかったです。
他の年であれば、「右に行くか左に行くか」道が選べ、自分が力を発揮しさえすれば行きたい方向を自分で選んで進むことができたのに、分かれ道のところで「通行禁止」を言い渡され、右に行きたいのに強制的に左に進むしかない…。
当然のことながら、ルートが変われば人生も変わるわけなので、「全く面白くないなあ~」と。
(なお、私の記憶だと、そのシステムは2年で終了し、元に戻ったので、やっぱりヘンテコだという結論になったのかもしれませんね…全く推測の域を出ませんが…)
ただ、そこから38年過ぎた今でもそのことをぐだぐだと考え、「人生を変えられた(恨)」と思っているかというと、そんなことはなく。
「人生には、自分の力ではどうしようも出来ないことがある」ということを小6で突き付けられたことは、私のその後の人生にとても大きな影響を与え、プラスにも働いたように思います。
その影響の1つは、「エントリーできるチャンスがある」「エントリーしさえすればスタートラインには立てる」ということ自体がものすごく幸せでありがたいことなんだという気持ちが、50歳になった現在、自分のなかに生きていること。
さらに、この「くじ」の一件に限らず、自分の力ではどうしようもないなかでも歩き続けなければならないことが少なからずあった(自伝ネタは満載)なかで、足におもりが付いて沈みそうになるのをなんとか±0までは持っていける「しぶとさ」が身に付いたこと。
さらにもう1つ、そういった「自分の力では変えられないこと」にエネルギーを割かず、「どうやったら持ち直せるか」ということに注力できる思考回路が身についたこと。
(そうでないと心身が持たなかったということもありますし、アンガーマネジメントの考え方も大いに役立ちました。)
そして、最大の特徴は、
「棚から『ぼたもち(=思いがけない幸運)』が落ちてきたときに、それが『ぼたもち』だと認識してキャッチする力が研ぎ澄まされたこと」です。
ちょっとした機会が「自分にとっての『ぼたもち』」となるものか、「ぼたもち」とする価値があるものかどうか嗅ぎ分ける。
そして、「やっぱり『ぼたもち』だ」と判断したものを逃さず捕まえ、自分の手で育んでいく。
…これは、あまり一般的にいうところの「運」に恵まれたとは言えないなかで、何とか生き延びていくための術として染みついたようなもので、するするっと道を歩んできていたら身に付かなかったものなのだろうな、と思っています。
その時は「全く面白くない!」と思うことでも、その経験を「自ら『ぼたもち』にする」ことも出来る、とも言えるでしょうか。
そういったところが、「キャリア」というものの醍醐味の1つだなあと感じます。
(かといって、とても「ぼたもち」に出来ないような経験も世の中にはありますし、また同じ経験をしたいかというと、それはまた別問題ですが。)
「ぼたもち」問題(!?)については、まだ書き記したいことがあるので、また改めたいと思います。
例えば…「キャッチしないほうがよい『ぼたもち』もあるかも」といったことです。
※なお…この「ぼたもち」の例えは、ある大学の先生の話を聴いた時に出てきて印象的だったため、キャリア界(?)の有名な例え話なのかと思ったのですが、どうもそうではないようです。…もしご存じの方がいらっしゃったらぜひ教えていただきたいものです。
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